メアリー・アン・マシューズは言った: 曖昧ね。

僕は言った: 態度に表すことが何だって言うんだ。涙を流したら君は満足するかい?そんなもの、本当にただの儀式でしかないかも知れないのに。そんなことは誰も必要としていなくて、ただ自分一人がどう受け止めるか、それだけかも知れないのに。

メアリー・アン・マシューズは言った: 儀式に救われる人間もいるわ。

僕は言った: それは、確かにそうかも知れないな。僕にはわからない。その人とは、もしかしたら一生理解し合えないかも知れない。だったら誰となら理解し合えるのか、と言えば、そんな人間はこの世のどこにも存在しないのかも知れないけれど。

メアリー・アン・マシューズは言った: 異端気取り、なんて。

僕は言った: 蔑まれても構わないさ。僕は僕の思うようにしか僕を捉えられない。気付いたんだメアリー・アン、僕は幸せになりたいと思っていたけれどそれは違っていた。本当は満たされることが望みだった。昨日も一つ気付いたんだ、それは、陽の当たる場所を歩けるということに似ている。僕は、誰に気兼ねなく生きられるようになれたらと思っている。

メアリー・アン・マシューズは言った: そうね。

僕は言った: 難しいことだ。死ぬまでに出来るだろうか。

メアリー・アン・マシューズは言った: 夢の続きを。

僕は言った: 真っ暗な部屋でモニタを見つめてる。他にひとつだけ、赤外線ヒーターの灯りだけが見える。モニタを見つめる僕の目に、薄青白い領域と、横に細く連なる文字列のような模様が映っている。白と、水色と、薄い青がいくつも入り混じっているように見えるけれど、本当にその色だけで構成された画面なのかどうかはわからない。僕は薄着でぼんやりと、モニタの前へ座るためだけに生活しているような印象さえ与える。最低限の生命維持に必要だと示したいような、水の入ったグラスが手の届く場所に置いてある。食べるものは見当たらない。僕は時に空腹を感じるけれど、それは大した問題でなくて、もっと優先順位の高い何かに没頭しているため忘れられがちになっている。ヘッドフォンを付けている。聴こえてくるのは大したものじゃない。流行の音楽か何かで、思索を妨げないように、意識して耳を傾けなければ仔細に聴き取れないくらいの音量で流れ続けている。僕はそれが嫌いじゃないけれど、今はひどくどうでもいい気分でいる。耳から流れ込む音楽も、時に感じる空腹のことも、今必死に目で追っている情報に比べれば大した価値を持っていない。その情報は文字列のような形をしていて、僕はそれが自分の今後に大きな影響を及ぼすような気がしている。けれど、確証はない。

メアリー・アン・マシューズは言った: 寝ても覚めても

僕は言った: 夢と現実と、違いがどれだけあるっていうんだ。君だったら何を挙げられる?

メアリー・アン・マシューズは言った: 深いところへ。

僕は言った: そう、深いところへ。僕が自覚する、僕の一番深いところとはどこだろうか?それは他の誰かが認識する、僕の一番深いところと比べてどうだろうか。もっと深い?もっと浅い?そこまでたどり着いて自分の底を知ることができたら、またはそこよりもう少し深いところに何かが潜んでいることを体感できたら、僕はもう少し変わることができるような気がする。

メアリー・アン・マシューズは言った: もっと深いところへ。

僕は言った: そうだ。自分が何で出来ていて、どこから来てどこへ行くかなんて、自分の奥底を覗いたらわかるものだろうか。どうにかしてそれを成し遂げなきゃいけない気がしている。

メアリー・アン・マシューズは言った: 誰かに急かされるみたいに。

僕は言った: そうしてくれるといくらか楽なんだけどね。僕のことは、僕がどうにかしてやるしかない。君だって、僕のことを命懸けでどうにかしよう、なんて夢にも思わないだろう?

メアリー・アン・マシューズは言った: どうかしてるわね。

僕は言った: どうかしてるんだ。気が狂いそうだ、というのは、僕がまだ気が狂っていないなら、だけれど。どうだろう、この落ち着きのなさは。頭を引っかき回してるうちに、皮膚を全部めくり取ってしまいそうだ。なんだっていうんだ、なんだっていうんだ。この落ち着きのなさは。

メアリー・アン・マシューズは言った: どうかしてるわ。

僕は言った: 芥川は「ぼんやりした不安」と言いながら死んだ。彼が本当に何のために死んだのか、僕にはよくわからない。カートは自分の頭をショットガンで撃ち抜いたと言われてる。賛否両論あるようだけれど、僕にはよくわからない。君との対話が僕にとって何になるっていうんだ。君は僕に何も与えないじゃないか。

メアリー・アン・マシューズは言った: あなたもそうだわ。

僕は言った: そうだ、僕もそうだ。君も僕も、そうだ。明日からどうやって生きればいい?

メアリー・アン・マシューズは言った: 幸せだなんて。

僕は言った: 精神的な安寧が得られれば何だっていいと思えるさ。暖かな暖炉の前だって極寒の雪原だって、自分自身がどう感じているかが問題なのだから、いや、それは心頭滅却だとか感覚器を麻痺させるとかそういったことじゃなくて。暑いのが幸せか寒いのが幸せかなんてどうでもいいことなんだ。大切なのは自覚すること。自分が幸せだと感じて、幸せだと感じた自分を認識すること。

メアリー・アン・マシューズは言った: そう上手くはいかないわ。

僕は言った: そうだね。そう上手くはいかない。

メアリー・アン・マシューズは言った: どういうことかしら。

僕は言った: 体裁がいいとか悪いとか、裕福だとか惨めだとか、満足だとか後悔だとか、どちらかに属していることやそうでないことが幸せかどうかにつながるかと言えば、そうは思わない。僕は、常日頃は大したものではないと思っている自分の意識というか自我というか、それが続く限りは誇りを忘れずにいたいと思う。自分のことを恥じるようになったらそれは何よりも苦痛だし、自分のことを胸を張って伝えられるなら何より満たされると思う。自分が自分を許せるように、そうやって生きていけたらそれ以上はない。

メアリー・アン・マシューズは言った: おめでたいことね。

僕は言った: でも考えてみろよ、本当に自分を殺せるのは自分だけなんだぜ!

メアリー・アン・マシューズは言った: 動機は何かしら。

僕は言った: いたってシンプルだと思う。僕はどうやったら幸せに生きられるか考えている。と同時に、『どうやったら幸せに生きられるか』考えながら幸せに生きることがどれほど難しいか、も知っている。幸せっていうのは定義が酷く難しいし、持続させることはもっと難しい。自分が幸せかどうか考え始めたら、本当は幸せだった状態でも幸せじゃなくなるかも知れない。そうやって幸せから幸せでない状態に移ってから、思い返してあれはそうだったんだと、逃した自分を責めてまた幸せが遠のくんだ。

メアリー・アン・マシューズは言った: それは何かしら。

僕は言った: 何だろうね。可笑しいな。目的と手段が入れ違ってると感じることもあるよ。本当は幸せになれなくてもいいのかも知れない、『幸せに生きたいと思ってある程度努力している』状態にあることが本当の目的なのかも知れない。ゴールは遠くて手が届かない方が、中だるみしなくて走り続けられると思う。そうした方が、後で振り返ったときに自分で満足できるのかも知れない。死ぬとか何とか、そういう瞬間に、振り返られればの話だけど。

メアリー・アン・マシューズは言った: そうできなかったら諦めるのね。

僕は言った: いいんだよ、立ち止まらずにどこかへ向かったことが、自分の中だけでも事実になってくれれば。その些細な支えさえあれば、何とかやっていけるんだ。